2021-10-11 第205回国会 衆議院 本会議 第3号
松下幸之助塾長、稲盛和夫塾長の薫陶を受け二十七歳で政治の道に入りました。初代後援会長松林寛之先生は、罪をおかした人たちを自らの「こども」とされ何百人もの人たちに「自分も生きていていい」と心の拠り所を与える方でした。 国会に送っていただいた後も多くの師そして友、支援者に恵まれました。ことに青年海外協力隊をお創りになった末次一郎先生は、沖縄返還をなし遂げられ、北方領土返還運動の先頭に立たれました。
松下幸之助塾長、稲盛和夫塾長の薫陶を受け二十七歳で政治の道に入りました。初代後援会長松林寛之先生は、罪をおかした人たちを自らの「こども」とされ何百人もの人たちに「自分も生きていていい」と心の拠り所を与える方でした。 国会に送っていただいた後も多くの師そして友、支援者に恵まれました。ことに青年海外協力隊をお創りになった末次一郎先生は、沖縄返還をなし遂げられ、北方領土返還運動の先頭に立たれました。
誰一人として、自分は、今まで四十年間解雇したことはありません、しかし、このまま経営が続けられないので、今日、この六月十五日に十三人の職人さんに解雇を告げます、私は、どんな不況でも一人たりとも解雇しなかった松下幸之助さんを見習ってここまで来ましたが、それでも諦めることになりましたと涙をこぼされました。 救えるじゃないですか。潰れなくてよかった会社を救うことができるじゃないですか。
○麻生国務大臣 これはもう、一九八九年、平成元年、このときからいろいろなものが大きく変わっていって三十数年がたったことになりますけれども、やはり、バブルがはじけて三万八千九百十五円をつけていた株価が一挙に割れたとか、消費税が入ったとか、あのころ、天安門事件が起きて、天皇陛下の崩御以降、松下幸之助が亡くなって、昭和でいえば、美空ひばり、手塚治虫、皆あの年に亡くなっていますから、いろいろな意味であの年は
今回の法務委員会の議論でも、松下幸之助さんのお言葉も通じながら、社会的な公器、使命を発揮するという会社の存在を提示されたことは大きな意義があるというふうに思いますし、会社法の大きな視点としてもそこは重要であるというふうに思います。
松下幸之助氏、先ほど、最初に渡辺委員の方からもありました、企業は社会の公器であると述べています。つまり、法律上は会社は株主のものかもしれませんけれども、本質的には会社は個人のものではなく社会のものであるという、そういう考え方を示したわけですけれども、私も、会社は、株主の声だけでなく、そこで働く人や社会の様々な声を反映することが必要であると考えます。
○高良鉄美君 社外取締役も、やっぱりガバナンスという面からすれば、会社は社会の公器という松下幸之助氏の話がありますけれども、それからいうと、やっぱり社会、地域、従業員、その他のいろんなファクター、もちろん株主もあるでしょうけれども、会社がどういうふうな信頼と業績を上げていくかということに対してかなり広範に関連してくるということになると、今言った、今ちょうど先生の答えのような、この社外取締役の役割とかあるいは
私はもともと三井住友銀行で働いていましたけれども、松下幸之助さんが、三洋の井植さんと、それと奥さんのむめのさんと三人で、四畳半で会社を開いたときに、住友銀行の先輩、支店長がそこに行きました。
でも、私、自分の会社の話で申し訳ありませんが、松下幸之助翁が言った言葉に、任せて任さずという言葉があります。任すんだけれども、任せた上には任せた側の責任もあるわけです。きっちりそれが運営されているのかどうかは国としてもやっぱり見ていかないといけないんじゃないかということを常々思います。
私も、松下幸之助さんが決断されて中国につくられたブラウン管の工場なんというのを拝見したことがありますけれども、かなり早い段階に中国に対して進出をし、支援をして、一緒に栄えよう、そういう決断をされたわけでございます。 冷戦時代のソ連と比べると、今の中国というのは、国際経済あるいは国際貿易の中で占める位置というのがはるかに大きくなっている。
これは松下幸之助さんがおっしゃっているんですが、人間における最高の芸術は経営だというわけですね。経営というもので今日のお話はほとんどカバーできるんです、これ、実は。 先ほど参考人の方が具体的な好事例として紹介されていたような会社の経営者がみんなこれ日本の企業の経営者であれば、そんな過労死なんていうとんでもないことは起こりませんし、労働時間が長ければ、先ほどもおっしゃったように人も集まりません。
もっと言うと、今年百周年を迎える松下といいますかパナソニックという会社には、松下は人を育てるところでございますという松下幸之助の言葉が残っております。人づくりに力を入れないといけないんではないかということが問題意識です。 めくっていただいて四ページ目、このページもちょっとゆっくりめに話させていただきます。
私も松下政経塾の出身でございまして、小野寺大臣の後輩ではございますけれども、松下幸之助の言葉にも、今後の日本は、単に物の面を豊かにするということだけでなくて、もっとお互い心の面の向上を図っていくことに大きな力を注がなくてはならないのではないだろうかと。中略で、それがすなわち、ここでいう精神大国ともいうべき国の姿だと考えられるのであると。
その献身的な動きに、当時、松下幸之助さんや大阪の財界人が心から感謝をされまして、大阪防衛協会というものをつくっていただいたということで、三十九年二月に創設をされました。
それで、先日、本会議で私は松下幸之助公のダムの経営という話をさせていただきました。それと、蛻変の経営という聞いたことのない言葉を、多分皆さんは何だその言葉はという言葉があったかと思います。
松下幸之助公のダムの経営、あるいは蛻変の経営など、よき日本の経営のあり方を再認識し、民間の力を信じて適切な政策を進めていくことが大切であると提起いたします。 さて、少子高齢化と人口減少、グローバル化や産業構造の変化等によって生じているさまざまな課題を解決していく上で、税制の果たす役割は極めて重要です。
これはかつて松下幸之助さんが、日本は必ずだめになる、そういうことを名言としておっしゃいました。それを聞いた方が、なぜ日本はだめになるんですかということを松下幸之助さんに聞きましたら、いやいや、私のような金持ちにまでこの日本という国は年金をくれる、こういうことが長もちするはずがないということをおっしゃったという記録も残っています。
稲盛さんがJALに入って社員みんなに伝えたことは、このJALという会社は、お客さんのためにあるのだ、社員のためにあるのだ、地域のためにあるのだという、これは松下幸之助が言った言葉ですけれども、それを社員に徹底させたんです。それまでのJALは、ANAと比べても、乗せてやる、ナショナルキャリアだという気持ちがどこかにあって、お客さんのためのものという感じと距離があったと私は思います。
同じ問いを松下幸之助に問いかけたら、松下幸之助は、会社はお客さんのものであり、従業員のものであり、社員と言ったのかな、そして地域のものだよというふうに答えたと言われています。こういう伝統があるから、日本の会社は、世界の中でも、百年以上、あるいは場合によっては室町時代から続いているというような会社が存在している理由だというふうに言われているんです。
ちょっと思い出しますのが、うちの祖父が松下幸之助さんと話をしたときに、松下さんが、政治は何ができるんや、で、わしらは何をすりゃいいんだということをおっしゃっているのを目の当たりにして、ああ、こういうものだなというふうに子供心に思ったことがあるんですが、そういう関係が今のところ少し弱いのかなという実感を私自身はちょっと持っています。
これは松下幸之助さんだったと思いますが、御自身が自分のさまざまな仕事のパートナーを選ぶ、あるいは部下を選定する、入社試験なんかで最終的にそういう点を非常に評価した。
地元の鶴橋地域でございますけれども、電球ソケットを開発されました松下電器産業、経営の神様である故松下幸之助会長を初め、戦後を生き抜き、日本を牽引してきた先駆者の宝庫でもあります。例えば、地元では、ロート製薬、そしてコクヨという大きな会社もこの町から出てまいりました。 商売の町、船場のあきんどの町でございます。